伊達政宗 兜

 

京都の煌びやかな桃山文化と、西洋の斬新な南蛮文化に影響を受け、戦国時代随一の洗練された美意識を誇っていた初代仙台藩主【伊達政宗】。

 

日本の戦国武将の中でも人気の高い【伊達政宗】の兜を、熟練の職人技術を駆使してシルバー925製の置物として再現しました。この兜の美しさの象徴である三日月の前立は、繊細な手作業でひとつずつ丁寧に切り出されます。六十二間の筋兜もその数を忠実に再現し、無骨な質感や重なるパーツの立体感や、シルエットの美しさにも職人の拘りが反映されています。

 

黄金の三日月が象徴的な漆黒の兜は困難に立ち向かおうとする心を奮い立たせ、闇夜に輝く月明かりのごとく、進むべき道を照らします。 

 

上杉謙信 兜

 

原型を用いて革で烏帽子を象り、漆で塗り固めて全体に金箔を押した、上杉謙信所用と伝わる「金箔押折烏帽子形兜」。

 

側面から後方部にかけて、烏帽子の結び紐に見立てた薄く平らな金箔押しの革紐を自然な形で長く垂らしてアクセントをつけています。太く力強い眉状に打ち出された装飾も見事な造形です。

 

 

特別な行装の折に用いられた兜であると思われますが、実用性も充分に兼ね備えています。「御具足臺帳」や「旧宝物台帳」にも記載のある古くより高名な兜で、謙信の嗜好の一端をよく示す名兜です。作期は、眉部の形状などからみて永禄ごろまで遡る可能性が想定され、異形(変り)兜の最初期の遺品として貴重な、そして造形的にも優れた名品です。

 

武田信玄 兜

 

金色の角をもつ赤鬼を模した前立てを配し、頭部にヤクの毛があしらわれた、武田信玄所用と伝わる「諏訪法性兜」。

この兜が信玄のものとされている理由は、武田家に伝わる軍学書「甲陽軍鑑」に、この兜が信玄から息子・勝頼へと受け継がれ、「長篠の戦い」において勝頼が諏訪大社から拝借し戦場で着用していた旨の記述があることに由来します。

 

 

その名の由来となっている信濃(現在の長野県)の諏訪大社は、古来より日本随一の軍神(建御名方命)が祀られてきたと伝承され、甲斐の国の領主であった武田家当主が代々崇拝していたと伝わっています。信玄も例外ではなく、戦のたびに諏訪大社が所蔵していたこの兜を拝借していたといわれています。

 

【3世代100年資産】を掲げ、ジュエリーや宝石が、親から子へ、そして孫にまで世代を超えて受け継がれていくことを目指して、ジュエリーの【世界3大加工産地】である山梨県甲府市において2011年8月に創業しました。創業者の渡辺堅は2011年3月の東日本大震災を契機にこれまでの人生を見つめ直し【人間はいつ最期を迎えるか分からない】と考え、信頼出来る職人を少数精鋭で集めて7名で起業しました。

 

社名のB.L.S.は、Bonds Linking for Success(成功に向けて絆を結ぶ)から頭文字を取って名付けられました。これは渡辺自信の信念でもあり、企業経営の礎となっています。企業理念は、古くから伝わる伝統技術を未来に継承していき、100年200年先まで甲府の宝飾産業が続いていくことを挙げています。そのために現役職人の保護を行いながら未来の職人を育てるために、職人たちが適正工賃でその技術を駆使できる自社ブランドを開発しました。

 

  

山梨の宝飾産業は金峰山一体が中心となる地域から産出される、水晶をきっかけに誕生しました。甲府市と水晶の歴史は古く、旧石器時代(1万6000年以上前)にまで遡ることができます。宝飾史としては、江戸時代末期から明治にかけて【水晶研磨】と【金工細工】が結び付くことにより、市場性が高く、より洗練されたものづくりが出来るようになりました。これにより宝飾産業の一大集積産地として発展してきました。また、山梨県甲府市は原材料の調達・デザイン・宝石研磨・金工細工などの宝飾職人を中心に、ジュエリーにおける【ものづくり】に必要なすべての要素が揃っている街です。そのことからドイツのイーダーオーバーシュタインやイタリアのヴィチェンツァと並び、ジュエリーの【世界3大加工産地】として名を馳せています。 

 

 

 


 

 

一般社団法人 日本和文化振興プロジェクト主催の2024年度 日本和文化グランプリにおいてシルバーアクセサリーとして入賞